音楽を聴くということ
 

 第1章 問いかけ

  第2章 聞くという認識行為

 

   

  第6章 絶望の国の幸福な若者たち

1.絶望の国を生きるということ

2.なんとなく幸せな社会

3.僕たちはどこへ向かうのか?

 感想

 

 

第1章 問いかけ

唐突ですが、音楽を聴くということを、少し考えてみたいと思います。これは、何ものかを認識する、あるいは、これを含めた何らかの行為をするということ、考えてみようとして、抽象的すぎて言葉尻だけ考えをこねくり回しそうになるので、とりあえず、私にとって身近な音楽を聴くということを、自分がいま行っていることに則して考えてみようと思うからです。

ただし、まとまった体系とか理論があらかじめ作られているわけでもなく、その都度考えながら進めて行こうというものなので、時々、思いついたようにスポット的にあらわれてくるようになると思います。

今回は、その入り口で、こんなことを問うことに果たして意味があるのか、ということを考えてみたいと思います。「音楽を聴くとはどのようなことか」「音楽をどのように聴いているか」等と言うと、言わずもがなで、いまさら何を問おうとしていのか、なんか面倒くさいことをやろうとしているな、と思われる方も多いと思います。そうです、別にこんなことを問わなければならない必要性はありません。だから、ことさらに、このような問いをたてることについて、訝しげに見られる方もいらっしゃると思います。だいたいのところは、そこまで注意を向けることなく、無関心という方が大半とは思いますが。私たちは、ふつう、当たり前のように音楽を聴いている。そこに、とりたてて問い発するなどということは考えもしないと思います。だから、こんなことを考える私は変人か、と言われれば、返す言葉が見つかりません。それだけ、私が暇人だということです()。音楽を聴くについて、「音楽を聴くとはどのようなことか」「音楽をどのように聴いているか」と問うことに限定されず、もっと広いところで、たとえば「存在とはどういうことか」というような問いを、ある人は根源的な問いと呼びました。この問いは、普段はとくに問われるということもなく、問いとしてあることを自覚されることもない。むしろ、このような問いを問わないところで日常的な生活が構造的に作られているといいます。そのなかで、突然、この問いを取り上げる人が出てくれば、「それをきいちゃオシマイだよ!」ということになるのです。とくに、大層なことをしようとしているわけではありませんが、そういう問いは構造的に隠匿されているというのです。でも、時々、それを問う人が出てくるのです。だから問い自体は連綿として存在してきたわけです。それが普通は現れない。ということは、逆にあらわれる時があるとすれば、それは普通ではない時と、かなり無理やりですが、言えるかもしれません。普通でない時とは、どのような時でしょうか。象徴的な言い方をすれば、キリスト教圏の人は、「存在」というのは「神」に置き換えることのできるものです。その人々が思わず「神よ!」を叫ばずにはいられなくなるとき。「神よ!」ではリアリティが足りないかもしれません。「オー・マイ・ゴッド!」という科白があると思いますが、その言葉を思わず口にする時を考えてみましょう。簡単にいえば、想定外の事態に直面したときです。しかし、ただの想定外では出てこないでしょう。日常生活では予想外の事態は沢山あります。そのたびに、こんなことを口にするわけではありません。たぶん、それは想定外で、日常の普通に何の疑問もなくある世界の足元がぐらついて危うくなったときに発するものだということです。例えば、失恋をしたり、身近なところで大切な人を失ってしまったときなど、自分の無力を身に染みて感じて「何のために生きているのか」などと普段の日常生活ではすることのない人生の意味を問うことがあったりします。

では、音楽を聴くことについての問いも、そのように問われることがあるのでしょうか。まあ、ここで私が問いを発しようとしているので、問われることがないとは言えないわけです。それでは、問うことにならないので、ここでは言葉を換えて、音楽を聴くことについて問いを発することに意味があるのか、という価値判断に適否を問うと言った方が分かり易いかもしれません。ただし、この場合人生を問うこととは違って、危機的状況で問われることは考えられません。それは人生をやめることはできないけれど、音楽を聴くことをやめてしまうことは、いつでもできるからです。つまり、音楽を聴くということは、あくまで自発的に行為されることで、決して強制されて、そこから逃げられないということではないからです。ということは、音楽を聴くことを問うことを迫られてしまうような場合というのは、あるのでしょうか。それがなければ、このような問いを発する意味がないということになってしまうかもしれません。さきほど、根源的な問いが発せられてしまうのは、普段はそのような問いが隠匿されてしまっていたのが、何らかの拍子で突然露わになってしまうからだ、ということを述べました。その典型的な例が危機的な状況に陥ったときです。危機的な状況も含めて、普段は隠匿されている根源的な問いが露わになるときというのを考えると、普段でない状況、しかも当人が好むと好まざるとにかかわらず、そういうことに追い込まれてしまうような状況です。これを限界状況ということも出来ると思います。では音楽を聴くことで、日常では、まずありえないような限界状況になってしまうことはあるのでしょうか。それは、音楽を聴くことの極限的な体験ではないかと思います。そんなものはないと言う人もいるかもしれませんが、例えば、このようなことはないでしょうか。今、あなたはコンサートホールのシートに座ったまま立ち上がることができないでいます。それは、さっきまでの充実した時間の余韻に浸っていたいという欲望に抗しきれないということもあるでしょう。それよりも、そのあまりに素晴らしい音楽に我を忘れてしまう(エクスタシーという言葉は、もともとギリシャ語で、エクスというのが外という接頭語で、自我が自分の外に出て行って身体は空っぽになってしまうという意味です。だからこの場合、自我が音楽に連れ去られてしまった、とでもいうので忘我という訳語があったりします)状態から立ち直れないというのが本当のところかもしれません。その時、あなたは音楽に翻弄され、感情は常になく昂ぶらせ、ハイテンションの精神的な緊張状態を保ちつづけ、感動に打ち震えていました。そんなことは、これまで数えきれないほどライブ会場に足を運んでも立ち会うことができなかった一生に一度あるかないかのような稀有な体験だったのではないでしょうか。そのとき、あなたは音楽というものの異常なものに直面したはずです。「何だこれは?」という異常なものに出会った時の驚異というのでしょうか。そんなときに、「何だこれは?」というのは、音楽だけに対するのではなく、それに直面した自分の体験に対しても向けられるはずです。それほど、その時の音楽を聴くというのは異常な体験だったはずなのです。それは、例えば13世紀のイタリアの片田舎でアッシジの聖フランチェスカが、普通に見れば何の不思議のないような些細なことに神の奇蹟を見出してしまって、そのあまりの驚異に、そのとき身に着けていたものをすべて脱ぎ捨てて、教会にはしったという回心の体験にも比肩しうる、といったら大袈裟でしょうか、そういう体験でもありうると思います。そういう時であれば、根源的な問いが発せられることがある、と思います。かなり大げさな書き方をしているかもしれませんが、もっと身近な例であれば、素晴らしい音楽に出会って、それまで音楽と考えていた範囲を超えるようなものとであって「これは音楽なのか?」「これも音楽なのだ!」というような体験はだれにでもあると思います。例えば、デビュー時のビートルズにリアルタイムではまった人々は、そういう出会いをしている人が沢山いると思います。ビートルズは当時の音楽のきき方に一大変革をもたらしたバンドでもありました。その時に人々は音楽のきき方について各自が革命的な変化を迫られたはずです。そのときには、意識しているにせよ、していないにせよ、根源的な問いがあったのではないか、と私は思います。たぶん、その人々は当時のビートルズを認めない人が「こんなのは音楽ではない」という否定的な言辞に対して、「これは素晴らしい音楽だ」という新しい音楽の概念を提示したことになるはずです。そこで、音楽というものの概念について議論があったとは言いませんが、そこで音楽というものがどういうものかとことに対して複数の議論が鼎立していたことは事実です。そこに本来的な音楽の豊かさがあると思いますが、根源的な問いが顕在化していたことも事実としてあったと思えるのです。

これから、ポツリポツリと音楽を聴くということについて考えていきたいと思います。

 

第2章 聞くという認識行為

音楽を聴くということを、まず、耳で音を聞くということを考えてみることから始めましょう。

最初に、ごく単純なことですが、音というのは存在するのでしょうか。最初から変な問いですね。では、こうしたら理解できるでしょうか、私たちは音を直接認識していのるでしょうか。なおさら分かりにくくなってしまったでしょうか。

具体的なことを述べていきましょう。今、私の眼の前にパソコンがあります。私は、このパソコンを見て、パソコンがあるということを認識します。また、もしかしたら目の錯覚かもしれないからと、念のために手で触って確かめるかもしれません。そのとき、私は、パソコンを目で見るという視覚と、手で触るという触覚で存在を認識することができるのです。逆に言えば、存在しているからこそ、見たり触ったりすることができるわけです。しかも、眼で見て信じられないと言う場合には、手で触って確認することができます。一つの感覚たけでなく複数の感覚で多方面から認識できるというわけです。では、音というのは、どうなのでしょうか。音そのものが私の前に在るという実在する物といえるのでしょうか。さらに、聞いて疑問に思った場合、それを他の感覚で確かめることはできるのでしょうか。音を見る、触る、臭いを嗅ぐ、ということは考えられないでしょう。

この比較はおかしいという意見もあるでしょう。そもそも、見る対象がパソコンという具体物で聴く対象が音というのでは比較にならない。それは尤もなことです。その意味で言えば、ここではパソコンの発する音を聞くことで聴覚によってパソコンの存在を確認するというのが、正しい比較である。そう言われれば、その通りです。では、ここでその線で詰めても行きましょうか。この場合、パソコンを見るとかかパソコンに触るというように、認識するものとしての目的語はパソコンです。しかし、聞く場合には、パソコンの音を聞くというように、目的語はパソコン自体ではありません。パソコンを聞くと言ってもいいだろうと言われるかもしれませんが、あまりそういう言い方はしないでしょう。つまり、見るとか触れるという認識行為はパソコンという物を直接認識するのに対して、聞くという認識行為はパソコンを音という間接的なものを介して認識しようとすると言ってもいいと思います。そして、聞くということは間接的であるがゆえに、ある音を聞いて、それがパソコンから発せられた音である同定するという判断作業も伴うはずです。それだけ、聞くという行為は段階的であるということができます。

さて、それでは、とさらに突っ込みがあるでしょうか。見るということだって、実はパソコンを見ていると言いながら、実のところ、パソコンに太陽の光線が当たり、その反射した光線を網膜で捉えているだけで、眼というのは光を信号のように受け取り、それを感知していると生理学的事実を言われるでしょうか。たしかにその通りだと思います。しかし、それを私たちは実際のところ、科学の分析がなくて、そうだと分ったでしょうか。音を聞くと言うことについては、とくに生理学的とか解剖学的な分析がなくても、ちょっと考えただけで、私たちが普通に分かることです。さらに言えば、眼の場合と同じように追究すれば、耳は音を直接そのまま認識するわけではないでしょう。耳は空気の振動を音として認識しているわけです。つまり、聞くという認識行為は、空気の振動のン感知から何段階も経てパソコンがあるという判断に至っているのです。これは、見るとか触るとは異なる、聞くということの特殊性です。

光はそれ自体独立したものとして眼で認識することは確かにあります。例えば、太陽の光がまぶしいということが、そうでしょう。しかし、一般的にはパソコンを見るということで、そこで認識に関してとくに判断が介在するということはありません。これに対して、聞くということは、音というのがパソコンを離れて、その音が独立してそれ自体として認識されるために、音を聞いて、それがパソコンから発せられた音であるということを、別に判断しています。それは、まるで文字を読んで、その指示する内容を理解する行為に、そのまま置き換えることも可能です。(そのことから、ある種の音を特に信号のように記号のような意味を持たせて人為的に使用するということもあるわけです。非常ベルなどが典型的な例でしょう。)そして、私たちは通常の場合、その判断結果が出るまでを聞くという認識行為に含めています。

このような聞くという認識行為の特殊性は、聞く対象である音というものの在り方の特殊性に起因するのではないか。

というのも、パソコンは物として私たちの眼の前に確かに存在しています。そのことを、私たちは目で見て、手で触って、複数の感覚器を使って確かめることができます。これに対して、音というのは空気の振動ですから、物として実体が私たちの眼の前に存在しているというわけではありません。あたかも、音があるように感じられたとしても、私たちの付近の空気が振動しているだけです。パソコンの音と換気扇の音がふたつ聞こえるようなのは、パソコンの音と換気扇の音という二つの実体があるわけではなく、空気が二通りの振動を同時にしているからなのです。そして、その空気の振動を、私たちは見ることも出来ないし、触れて確かめることもできません。それは耳で聞くことでしか感知できないのです。つまり、私たちが自身の耳である音を聞き取ったとして、その音が聞こえたということを確認する手立てが、自分の内にはないということなのです。ということは、私たちはもしかしたら錯覚かもしれない危険性がありながら、何ら確認することなく、耳からの情報を信頼していることになるわけです。ということは、突き詰めて言えば、見るとか触るといった認識行為は、対象が存在するからそれを認識することができるのに対して、聞くというのは音が存在しているということが確かではないのですから、聞くという認識行為があってはじめて、私たちにとって存在していることになる、ということになると思います。なんか、神様になったようなものですね。ちなみに、このような場合、あるかないか不明なものを、実際にあるかのように定着させる働きを想像力と呼びます。イマジネィションです。ここでの議論にはついていけないと思った方も、想像力という言葉で何となく納得できたのではないでしょうか。

ここでは、想像力について議論を発展させることはしません。ただ、音の性質の特異性に鑑み、二つの点について分析的な議論を追加します。音は、そもそも空気の振動です。振動というのは、どこにあるのかはっきりせず、まるで空間にふわふわと浮いているようなあり方に近い、ということと空間を漂うように一所に静止していることはなく、絶えず移動しているものでもあります。それは、耳で音を聞く場合、一時的な認識ということで、例えば、今鐘の音を聞いたとしても、それがずっと聞こえているわけではないということに通じると思います。このことをもっと突き詰めていくと、今私が、何らかの音を耳で感知したとします。その振動を耳の様々な器官(鼓膜とか三半規管とか)で感知し、それを神経を伝って脳に伝わります、その情報を脳が解析して音として認識するというのが生理学的な説明でしょう(これは、私の曖昧な記憶で述べているので、間違っているかもしれません)。ここで、耳の器官が感知して脳が解析して音を認識するのに、ほんの些細ではありますが時間がかかることになります。そこで振動の性質を考えると、耳の器官が感知した時と音として認識した時との間に時間的なズレがあって、その間にもともとの振動はその場から他の場所に移ってしまったり、無くなってしまっているかもしれないということなのです。音を聞いたとして、認識した、実はその時点では、すでに音はなくなっている可能性があるということなのです。さっきの議論では、音を聞いたとして、その当の音があるかどうかを確認できないという議論で、単に確認ができないというだけでした。しかし、ここに至って音が存在しない可能性があるということになると、音の存在を確認できないということが、切実な問題となって来ると思います。そしてそこに、あるかないか分らない音を、あたかもあるものとしてしまう想像力という働きが、実は、そこにないものを、実際にあるかのようにしてしまう働きになっているかもしれないことになるのです。つまり、音を聞くということは、常に、そのどこか片隅において、それは虚偽かもしれない(実は、音はなかった可能性がある)という否定の契機を抱えた認識であるということができます。そういう意味で、これを虚構的な事実認識と呼ぶことにします。

この議論を追いかけていて、やっぱり変だと思われたでしょうか。何か変ですよね。しかし、これだけでは、実は聞くと言う行為の半分にしかすぎません。ここまでは、言わば前半です。変かどうかは後半の部分の議論を待ってからでも遅くはないと思います。

空気の振動を音として耳という感覚器で捉えるということについて、実は、現実にそこにあるものを直接すべてキャッチするという単純なものではなく、かなり不確かなことを想像力を介して、恣意的ともいえる捉え方をしていることを述べました。しかし、ことは、これだけでは終わらないのです。たとえば、今は「生録」ということをあまりやらなくなったようですが、私が若いころはテープレコーダー(とくにSONYのデンスケと略称されるテープレコーダー、これが結構重かった)を背負って屋外でマイクを出して録音するということを趣味とする人がたくさんいました。たとえば野鳥の声を録音するとか。そのときに、初心者は必ずぶつかるのですが、自分が聞いたのと録音した音を再生して聞いたのとは印象がまったく異なるのです。録音したときには鳥の囀りが明瞭に聞こえたのに、録音したテープから微かにしか聞こえてこない。その代わりに録音したときには聞こえていなかった音がたくさん入っている。それは、葉のそよぐ音だったり、自分が草を踏む音だったり、風の音だったりその他諸々の音だったりです。それは、たとえば、森の中で人は野鳥の声を聴いているときに、それ以外のたくさんの音に囲まれているということです。そこで、実は人は聞きたい音をその中からピックアップして選択的に聞いていることになるのです。しかし、テープレコーダーはそのような選択することはできないので、マイクが拾った音をすべて録音という記録をしてしまっているというわけです。そこで、録音に手馴れた人は、本来録音したくない音を排除するためにさまざまな工夫をするのです。たとえば、マイクの志向性を絞って鳥の声の聞こえてくる方向から以外の音をシャットアウトしたり、録音レベルを調整したりとかさまざまなことをします。これを人は無意識のうちに、あたかも自然であるかのように調整をしているといえます。それは、おそらく耳という器官が捉えた空気の振動を信号化し神経を経て脳に送られる過程で情報の解析と取捨選択が行われる、あるいはあらかじめこういう方向の情報を捉えるという指令の元に耳が空気の振動を捉えようとしている、そのどちらかは、私には分かりませんが。このように、聞くということの前半については虚構的な事実認識ということを言いましたが、この後半については、それにさらに恣意的な選択ということが加わることになります。これは、たんに人の周囲に音が満ち満ちていて、それを耳で聞いて認識するというよりは、極端にいえば、聞く人が想像力を介して音という現象を耳という感覚器と脳の機能によって人為的に創り出していると言える、ということなのです。

 

第2章−2 認識行為の中の聞くという行為

これまでは、“聞く”という認識行為について考えてきました。この際に、検討しやすくするために“聞く”という行為に絞って、そのことだけをピックアップして考えてきました。しかし、実際には、どうでしょうか。私たちの日常で聞くことに絞って、それだけに専念しているということはあるでしょうか。おそらく、日常生活では、見ることや触ること、或いは臭いを嗅ぐことと同時併行で聞くことも行っているのではないでしょうか。それは音楽を聴く場合であっても、ロックのライブの会場で、バンドのメンバーの肉体の動きが生み出すパフォーマンスに煽られて興奮が増して演奏への乗りが加速するとか、オペラで歌手の表情を見てアリアの切実さを痛切に感じるということがあるわけです。このとき、私たちは聴くだけでなく、ステージのミュージシャンの動きを見ることを同時に行っています。そのときに音楽の感動を聴くことと見ることとによってどの程度受けたのか区分することはできません。音楽を聴くことですらそうなのですから、日常生活ではそれ以上に聞くということは、ほかの認識行為と協力し合ってなされているといえるでしょう。実際、音というのは遠くから伝わるものであります。未だ人間が文明化されていない野生に近い狩猟生活をしていたころであれば、感覚器は身の危険を事前に察知したり、獲物を発見するための重要な器官であったはずです。遠くから天敵の大型の肉食獣が忍び寄ってくるのを目では草などに隠れて見えなくても、微かな足音を耳で聞き取ったりすることで事前に察知する等ということが実際に在ったのではないか。その場合、危急であれば、足音を聞き取った時点で緊急避難でしょうが、その前に耳で聞いたのが何であったのか、その音の方向に目を凝らして大型の肉食獣を確認していたのではないかと思います。私たちの日常でも、物音を聞いたときには、それが何の音であるか、何から発せられた音であるか、たいていは音を先に感知して、あとから、その方向に視線の注意を向けて発見するということが多いのではないかと思います。

ということは、普通、私たちは単に音を聞くというだけでは情報としての意味がないことが多いのです。その音が何から発せられた音であるかというような何かの物体(生命体を含む)が特定できてはじめて、わたしたちにとって意味のある情報となる。そのためには聞くという行為だけでは十分でなく、どうしても見るという認識行為が必要になってくるのです。私たちが道路を歩いているときにクラクションを鳴らされたときには、必ずクラクションの音を聞くと、その方向に視線を向けて自動車を見ようとするでしょう。そうしないと、どちらの方向によけてよいのか、確認できないわけでもあります。このような行為は意識してやっているというよりも、本能的に無意識のうちにやっている行為だと思います。

このように人間の感覚の中で、聞くという認識行為がほかの認識行為を呼び起こす契機となって危険等を察知するということかある。これが実際の生活の中での聞くという行為のあり方だということが分かっていただけたのではないかと思います。しかし、ここでも聞くということを考えるために抽象化作業をして、大事なことを無視しています。

それは、このように聞くということで音を聞き取ったときに分析できるほど十分な情報を耳が観取していないということです。つまりは、聞き取った音は完全ではないということなのです。さっきの例で言えば、忍び寄る大型肉食獣の足音を完全に聞き取ったというのではなく、蓋然性の比較的高いという程度のものだったのです。だから、ほかの感覚器を動員する契機であったわけです。ただし、危険な場合は、たとえ蓋然性が高くなくても、万が一ということもあって危険回避行動をとらなくてはいけません。私たちだって、夜道を一人で歩いているときに存在しない足音を背後に聞いてしまって、あわてて振り向いても人影を発見できなかったという経験はあると思います。ただ、そのとき、それで注意をすることによって万が一の危険回避にはなるわけです。

私たちが単に耳で聞くというだけで十分な情報を得ていないということは、たとえば、口頭で会話をするときにも端的に現れます。私たちが会話をするとき、とくに多少込み入った内容の会話をするときは、たいていは会話の相手を正面にみて、相手の顔をよく見て話をしたり、聞いたりすると思います。これは、相手の唇の動きや顔の表情等をよく観察して、耳で聞いた情報を補完していると考えられます。そこで、よく聞き取れなかった言葉を補ったり、言葉だけでは伝わらないニュアンスを汲み取ったりしているということができます。そして、言葉のやり取りの場合であれば、それまでの記憶による情報の蓄積や文脈を読み取るという高度の判断作業も伴って、不十分な音声の聞き取り情報を補完して、相手からのメッセージを理解するという行為を行っている、ということができます。

つまり、これまで考えてきたことを端的に要約すれば、聞くという認識行為は、それ自体で一個の独立した情報検知、収集行為としては不十分なもので、そこに他の認識行為と共同し、判断行為に補完してもらうことでようやく成り立つものであるということです。それは、聞くという認識が、客観的に存在する音を認識するということではなくて、不定形で無限定に漂っているような空気の振動に対して、そのあるかないか確実なのを聞くということで、音を脳の中に虚構的な信号としてつくりだして、それをあたかも認識しているかのようにしているという聞くという認識行為の本質によるものです。

多分、ここまで述べてきたことについて、何か納得しづらいものがあると思います。どうしてそうなのか。それは音というのが、あるかないのか分からないような、はなはだあいまいな存在と言えるからです。たとえば、今、私が自室内でゴジラの咆哮を聞いたとします。しかし、それが実際にあったかを確認するためには私はゴジラをこの目で見るとかしないとできないのです。でもその場合、ゴジラの存在を確認することはできますが、ゴジラの声という音の存在を確認できるわけではありません。仮に、私がゴジラを見て、その存在を確認したとして、実は、そのゴジラはのどを痛めていて声を出せる状態ではなかったという場合であれば、私の聞いたのは空耳であったことになってしまいます。もし、私が聞いたのが空耳ではなかったということを証明するのは、私一人では不可能なのです。そのためには、私以外の人間が一緒に聞いたということを主張すること以外にはありえないのです。すなわち、音というのは複数の人間に共有されることで客観性を得ることができるのです。それは、存在しているということではなく、共通に認識されるということなのです。このことは、後で、音あるいは音楽のコミュニケーション的要素に本質的につながっていくことです。

このことが聞くという行為と、の対象である音の特異性です。

 

第2章−3 認識行為としての聞くという行為

章のタイトルが、こんがらがってくるようになっていますね。前項では、認識行為には、見るとか触るとか聞くなとの様々な行為があって、その中で、とりわけ聞くという行為の特徴的な点をとりあげることによって、聞くということを考えてみました。今度は、聞く以外の認識行為と共通しているところを見ていきたいと思います。

私たちが耳で聞いている音は、私たちの周囲で響いている音そのままであるのか、ということです。これは、音に限らず、目で見ているものが、そのままなのか。つまり、耳や目という感覚器で音や光の情報を取得しているわけですが、それらがすべて、そのまま私たちは情報として認識しているのかということです。ひとつ考慮しなければならないのは、感覚器の能力の限界があるということです。耳であれば可聴領域として周波数のある幅の音の情報に限って認識できる、それ以外は認識できない、ということです。目であれば可視光線以外の、紫外線とか赤外線といった波長の光線を視ることができないとされています。このような能力による限界があるということは、頭の片隅においていていただきたいと思います。

さて、音による情報を記録する方法として録音という方法があります。昔はテープに録音するアナログ録音の方式のみでしたが、今はデジタル信号に書き換えてハードディスクに情報を保存するデジタル録音の方法もあります。どちらにしても、その録音という方法で、例えば日常生活の場にマイクを置いて録音をしてみて、その記録を再生してみると、日常生活においては静かな室内は、無音とは思ってはいませんが、意外なほど多くの音で充満していることが分かります。それは、たとえば電気機器の発する低周波の音であったり、配管を流れる水流や気流の音であったり、虫の動く音であったり、そんな音は録音したものを聞いてはじめて、こんな音があったのかと気がつくのです。このように音の存在には、私たちは日常生活では気づきません。そのような音を意識して聞くということがない。つまりは、認識していないと言えます。

カクテルパーティー効果と言われる現象です。カクテルパーティーにはたくさんの人々が集まり、会場のあちこちで数人のグループができて、そこで人々は会話をします。ということは、パーティー会場の中は人々の会話の声で溢れんばかりです。その会場に私がいるとしましょう。そこで、知り合いと遭遇し、「最近どう?」などと近況を話し合い等するとしましょう。このとき、私と相手の周囲にはパーティーの人々がいて、私たちと同じように会話をしています。同じ人間の声ですから、音量や音質がおなじようなもので、それが会場に溢れています。私と相手のすぐ隣で同じような会話をしている人々の声と、私の相手の声の音量はほとんど同じ程度です。しかし、私は、相手の話をちゃんと明瞭に聞くことができるのです。このとき、となりの人の声は邪魔になりません。私にはほとんど聞こえないかのようなのです。マイクで録音した音を認識していなかったと同じように、認識していないのです。この場合、私は、聞く必要のある音を選択して、その音だけを認識していると言えます。おそらく、耳という感覚器でパーティー会場の音の情報を取得し、それを認識するさいに取捨選択をしていると考えられます。だから、ゴジラの音を聞いて危険を察知する場合にも、同時にその他の音の情報を取得している中で、ゴジラの音を選別して認識しているのです。

 

第3章 “聞く”と“聴く”の違い

これまでのところで“聞く”ということを考えてきましたが、音楽を聴くということは、その中に含まれ、“聞く”のなかでもある特徴を備えた特徴的なことであると思います。そこで、“聞く”との違いに注目しつつ、音楽を聴くということの特徴について考えていきたいと思います。

ここでひと言断っておきますが、このように音楽を聴くということを日常的な聞くことから特に区別するということは、一つの立場であり、これは、このような考察を進めている私が主にクラシック音楽とその音楽観をベースにしているポップスを好んで聴いていることから影響を被っていると言えるという点です。世の中には、これから述べていく聴くということの対象に収まりきらない音楽は確かに存在しており、ここでの議論はある特定の音楽に的を絞ったもので、例外を排除するものでないということを、あらかじめ了解しておいていただきたいと思います。このことについては、できれば後ほど触れていきたいと思っています。

では、議論を始めていきましょう。最初は、“聞く”と聴くの違いを単純化して提示してしまうほうが分かりやすいと思います。“聞く”という認識行為は、当のその音がどこから発せられたのかという発生源と不可分で認識されています。例えば、ゴジラの咆哮を耳にすれば、付近にゴジラという危険な存在が近づいてきていることになります。これに対して、音楽を“聴く”という際には、その音がどこから発せられたかということは二次的なことになり、発せられた音そのものに焦点を絞ることになります。音楽でも、音は楽器を鳴らすことであるし、演奏者というのも大事だという反論もあるでしょう。仮に、ゴジラの咆哮を、現実にゴジラの発声で聞くのと、テープに録音した音を聞くのとでは、まったく意味が違ってきます。生のゴジラの声を聞くということは、近くにゴジラがいるということで危険が迫っていることを意味します。ゴジラの声を聞く人は危険の兆候、危険が迫っている警報として聞き取られるわけです。また、録音されたゴジラの声を聞いても、現実にゴジラの危険が迫っているわけではありません。そこには警報の性格が消失してしまっています。これに対して、音楽を聴く場合はどうでしょう。ある著名なピアニストの演奏を聴くというのと、同じ曲を近所のピアノ教室の生徒が練習したのを録音で聴くということを比べると、両者の聴くということの意味づけは変わりありません。両者の違いは聴いている音の差異です。そこには、現実のゴジラの声と録音との切実な違いはないのです。それは、どうこうことかというと、音楽を聴くという場合には、当の音を音の発生源から切り離すことが可能なのです。ところが、それ以外の聞くという場合には、音と発生源は一体不可分で切り離すことはできないのです。

聞くということを言葉にする場合、ゴジラ(の声)を聞く、というのが一般的です。この場合、ゴジラを聞く、という言い方でも意味は通じます。これに対して、ピアノを聴く、と言う場合には、ピアノの演奏を聴くという意味が含意されており、そこで演奏という言葉を補う必要が出てきます。この場合は聴くのは演奏で、ピアノはその演奏の説明をする修飾語になるのです。

なぜか、その理由は分かりませんが、認識していないということは、とくに認識する必要がないということが言えると思います。つまり、その音の情報を得ても役に立たない。しかし、すべての音や光その他の情報を処理仕切れてしまうには、能力が足りないでしょうから、役に立たない情報に限りある能力を割いてしまうのはもったいない。そんな訳はないかもしれませんが、人が何かを認識する場合、例えば音の情報を得る場合に、漫然と音に対して受け身の姿勢で、感覚器である耳に入ってくる音の情報を受け取っているというよりも、あらかじめ必要性があって、獲得したい情報を選択しておいて、積極的に、獲得しにいくというイメージに近いのではないか、と思うのです。例えば、同じ程度の音量で、似たような音であっても、風に揺れる葉音と、こちらを獲物として狙って忍び寄る肉食獣の草を踏む音と、両者を聞き分け後者の音に敏感に反応することは、生き延びるために必要不可欠なはずです。その場合、極端なことを言えば、前者の音は聞こえなくて、後者の音だけ聞こえるようになれば、間違いも減ります。両者を瞬時に聞き分け、後者の音の情報のみを選択して認識する、ということになるのでしょうが、効率的にするのであれば、当初から後者の音にターゲットを絞り、その音に対しては敏感になるほうがいい。マイクロフォンを使って録音する際に、特定の音をピックアップして録音することも、ある程度可能です。人が認識する場合には、常にそれが多かれ少なかれ行なわれているのではないかと、思います。それは、音の情報であれば、聞く必要がない音でも、聞いてしまう音を雑音とかノイズと言っているのは、そのような認識のやり方が反映して、そのような概念が生じているのではないか、と考えてもよさそうに思えます。だからこそ、私たちは音が充満しているような街中で会話という、音の情報のやりとりを正確に交わすことができるのではないでしょうか。雑音にまぎれて相手の口で話される言葉が聞き取れないということは、ないからです。

 

第3章−2 “聞く”の中から“聴く”を取り出す

聞くと聴くの違いを分かりやすく区分するために、あえてゴジラとピアノの演奏という別々の音源で説明してみしたが、これでは、音楽を聴くということが聞くの中の一部であるということが隠れてしまって、両者は別々のことのように誤解されてしまうかもしれません。そこで、もう一度、聴くと聞くの違いを違ったところで述べてみたいと思います。

今度は、同じ音源に関して違いを考えてみます。つまり、ピアノ(の音)を聞くことと、ピアノ(の演奏)を聴くということとの違いです。前章のおさらいも含めて考えてみましょう。聞くという行為は、聞いている音を発する発生源(音源)が何かという認識と一体不可分です。場合によっては、その音の発生源を確認するために、ここではピアノを見るという別の認識行為で補完することもあるでしょう。この場合、その音の発生源に、まず意味があるわけです。ゴジラの声であれば、ゴジラの声が聞こえるということは怪獣が近くにいるということで、危険が迫っているということです。兎の声が聞こえるということであれば、私が狩人の場合には獲物が近くにいるということです。したがって、ピアノの音を聞くという場合には、その音の発生源に関係する以外の音の情報は重要ではありません。例えば、ピアノの音の高低とか、タッチの違いとかです。

これに対して、ピアノを聴くという場合には、聞くの場合に重要視されていなかった音の発生源に関係する以外の情報が重要視されるのです。その理由を考えてみましょう。聞くということの例としてあげた、危険を告げるゴジラの声や獲物の到来を教える兎の声は、通常の場合には聞こえてこないものです。それが聞こえてくることで、何らかの異常な状態を聞く者に教えてくれるというものです。つまり、音があるかないかということを察知するということの前提には、その音は通常は発生していないという状態なのです。ゴジラの声が日常的にいつも聞こえているという環境は、まず考えられないですよね。そんな声などなくて静かな環境の中にいて、突然ゴジラの声を聞いて危険に恐怖することになるわけです。したがって、ゴジラの声を聞くという場合には、いつもは、ゴジラの声が存在していない状況にあって、もしかしたら発生するかもしれないゴジラの声を察知するために耳を働かせているということになるわけです。つまり、聞くということの対象は、現在あるものではなくて、現在は存在しないものなのです。しかし、将来現われてくるかもしれない音、あるかないか分からない音を対象としているのです。だから、あるか、ないか、ということだけで十分なのです。これに対して、聴くという場合には、その聴く対象は存在することが期待されている、あるいは約束されていると言うことができます。ゴジラの声のようにあるかないかわからないのではなくて、これからピアノの音が現れるのです。聴くということをすることは、その対象となる音が現れることを期待して、その前提の上に、あるかないかを察知するのではなくて、対象があるということが通常になっているのです。実際のところ、ピアノを聴くという場合に、ピアノの音があるかどうかをピアノを目で見て確認するということはしないでしょう。逆に、ピアノの演奏を目を閉じて聴く人だっています。同質の音であれば、録音ということもあるでしょう。録音であれば、そこにリアルな音の発生源であるピアノは存在しません。だから、あるか否かではなくて、あるという状態を認識することになります。あるという状態を認識するとは、どういうことかといえば、その意味とか内容ということになります。少し先走りましたが、聴くということは、対象となる音の発生が予定または期待されています。だから、聴く人は、そこに音があるかないかではなくて、そこにある音を認識することになります。つまり、音があるということが前提されているため、音を発生させる発生源があるかないかということは、そこで認識する対象から外されることになるわけです。これに従えば、ゴジラの声を聴くという場合には、発生源であるゴジラがいるという危険を、ここでは脇において、いつも耳にしているゴジラの声を聴いて、今日の声は良く響いているとか、昨日の声はこもりがちだったとか、そこに、さらに付け足しをすれば、今日のゴジラは喉の調子がよいとか、そういうことが内容とか意味として、聴くものが解釈することになってくると思います。ゴジラの例は、極端すぎて現実味がありませんので、ここで触れた意味とか内容については、もう少し考える必要があると思います。

 

第3章−3 内容について考えてみる

対象となる音を、その発生源のあるなしから引き離して、その音そのものがあるということを前提に、その音があることを認識するということ。そうなると、その音が在るのを聴くということになります。ここでは、もはや音があるかないかではなくて、音があるということで、そこで、もう一歩先に進んでみましょう。

音が在るかないかを察知するということは、人が生きていく上で、危険の予知や獲物の発見など必要な情報を得るという、ニーズに応えるものといえます。それでは、そこに在る音を聴くということに、音があるかないかを察知することとは異なるなんらかのメリットがあると考えられます。そうでなければ、あえて必要のないことを、わざわざ人の認識機能として備えることもないでしょう。結論から先に言えば、その端的な例として実際に考えられるのは、人が言葉を話すということです。人が口から発する声を聞き分けて、その音の差異を組み立てることで、言葉という音のまとまりを作り出して、沢山の種類の言葉を使い分けて、人同士が情報を伝達するシステムです。しかし、通常では、言葉を聞くとか、話を聞くといいます。あまり聴くという言い方をすることはありません。聴講とか、よほどの注意を払って講義をきくという、例外的な場合に聴くという言葉が当てはまります。いずれにせよ、言葉を話す、聞くということは、すぐに相手の口からおなかの音の発声されるのを聞き取って、その音と他の言葉との音の差異を聞き分けて、その差異によって構成される言葉に何らかの情報などが託されて、きく者はその意味や内容、ここでは、その言葉に託された情報などの伝達を受ける子ということになります。それは、明らかに、音の発生源が存在するかを察知するという音による情報取得とは、異質なことです。「ゴジラ」という言葉をきいても、そこにゴジラがいるとは限りません。しかし、私たちは、ゴジラがいないとところでも、「ゴジラ」という言葉を媒介にして、ゴジラの情報をえたり、ゴジラの被害で悲しい体験をした人が、「ゴジラ」という言葉を媒介にして、同じような経験をした人とめぐり合うことができるわけです。この上のケースでゴジラのことを聞いた人は、その場に現実に、ゴジラがいるかどうかなどということで注意していないはずです。つまり、「ゴジラ」という言葉と実際のゴジラとの間に物理的な関係はありません。そこでは、ゴジラがいることとは無関係に「ゴジラ」という言葉がゴジラのことを内容として人々の間で交わされるわけです。これが話し言葉であれば、「ゴ」「ジ」「ラ」という3音が交わされるわけです。これが、音の在るかないかを察知するのではなく、音があるということを前提にしているのが、聴くということで、その分かり易い例として言葉を話し、聞くということを述べてみました

この言葉と、その内容についての議論はひとつの学問になっているほど様々な考察が加えられてきていることでもあり、ここでは、テーマとなっていることではないので、ここでは、これ以上は触れないでおくことにします。

ただ、ここでテーマの本筋に戻りますが、言葉のような音を聞く場合、音自体をきいているのに、通常は“聴く”ではなくて“聞く”の方に入っているのはどういうわけなのでしょうか。言い換えれば、ゴジラを聞くということと言葉を聞くということに大きな共通点があって、それは音楽を聴くということには共通していないことであるはずです。

その共通点とは、ゴジラを聞く場合も、言葉を聞く場合も、聞く対象である音そのものを最終的な目的としていないということです。ゴジラを聞くことについては、前に何度も述べてきたように音の発生源であるゴジラがいるかどうかということです。ゴジラがいれば音が聞こえるはずですから、その音を聞き出すことでゴジラという危険を察知する。だから、ゴジラを察知することができるのであれば、べつに音を聞くことに限らず、目で見たり、臭いを嗅ぎ分けたりでもいいわけです。つまり、ゴジラを聞くということは、ゴジラの存在を察知するための手段ということです。

では言葉を聞くということについてはどうでしょう。ゴジラの場合とは違って、発生源が存在することを察知することが目的ではありません。むしろ、発生源ではある話している人がいなくても、その言葉があれば用が足りることになります。その発せられた言葉があって聞くという行為が始まるので、聞く場合には音があるということが前提されています。この場合は、言葉の内容を情報として得ることが目的となります。だから、聞いている音は言葉で構成されている内容を伝えるための媒介ということになります。そして、内容というのは音の差異の組み合わせですから、具体的にどのような音であるのかということは問われません。音と音との関係が形となって伝わればいいわけで、一種の設計図のようなことです。その形を実在化させる素材は何でもいいのです。例えば、甲高い声でも、ハスキーな低音の声でも、「ゴジラ」という言葉の内容が変化するわけではありません。したがって、言葉を聞くという場合には、最終的な目的は言葉の内容を得ることで、言葉の音はその媒介にすぎず、それを聞くということは、内容を得るための手段ということになるのです。言葉は話し言葉だけでなく書き言葉もあります。内容を得るには、話される言葉を聞くということに限定されず、書かれたことを見て、それを読むことで得ることも可能です。したがって内容を得るためには、ゴジラを察知する場合と同じように、聞くということが必要不可欠ではないということになります。このように聞くという場合には、音を聞くということが必要不可欠で、そのことに特権的な地位を与えているというのではなく、他の感覚と横並びのワンオブゼムで、最終目標の達成のための手段ということになっています。

どうして、こんなことになってしまうのでしょうか。それは、第2章の議論に戻ってしまうことになりますが、音というのが実体を伴う存在ではないということです。

 

第6章 絶望の国の幸福な若者たち

1.絶望の国を生きるということ

日本の未来への不安材料を若者の視点で考えるならば「世代間格差」と言える。人口構成が高齢化の進行により、減益に対する高齢者の比率は上昇し続ける。その結果、現在の高齢者は自分が若いころ支払った何幸せでいるという。

2.なんとなく幸せな社会

幸せの条当たり前である。

3.僕たちはどこへ向かうのか?

ミクロな視点

 
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